強迫になると、どんなに神経を尖らせても避け切れないような汚れだったり、普通の人なら気にしない、気にしていたら生活していけないような汚れが異常に我慢ならなくなり、徹底して避けたり、避けきれずに洗浄や掃除にものすごい時間をかけたりしてしまう。
強迫患者はそれをしたくてしているわけではなく、大抵は本人にとっても、もんのすごく面倒で、おっくうで、嫌で嫌で仕方がないものだと思う。
過去にネットでこういう質問を見つけた。
質問者の人は”陰毛”が嫌悪の対象で、洗濯したものに陰毛らしきものがあると3回は洗濯しなおしたり、素手で触ってしまったら10回は石鹸で手洗いをしてしまうのだそう。
家族の陰毛が床に落ちているかもと思うと、床に寝そべることもできないそうだ。
そこで、強迫ではない”普通の人”の場合、もし陰毛が手についてしまった場合、どうするか知りたい、手洗いするか、それとも手を洗わなくても平気か、とにかくなるべく多くの人の「普通の感覚」が知りたい、という質問だった。
ちなみに私は、洗濯前の陰毛が手についたとしたら、「汚い」と思うけど、手を1回洗って終わりだ。10回もは洗わない。
洗濯したもの(洗濯機から取り出したタオルなどに陰毛が引っかかってたとか)なら手も洗わない。
私は陰毛が嫌悪の対象じゃないというのもあるし、石鹸を使った洗浄は信用できるというのもある。
ちなみに私も、同じように自分の判断に自信が持てなくて、過去にネットで質問しまくったことがある。
「この程度の汚れならみなさん掃除しますか?」
「このくらいの汚れでお風呂に入って服を着替える私は普通ですか?それとも変ですか?」などと。
とにかく、「普通の人の感覚」はどうなのかを聞いて回りたかった。
自分に疲れながらも、「もしかしたら疲れる自分がおかしいのだろうか」と思っていたからだ。
他人は自分と同じような清潔基準を持ちながらも上手くやれているのではないかというのが頭の片隅でぬぐえなかった。
人はみんな完璧に清潔にやっているように思えたりした。
この病気は、自分の判断を信じることができなくなる病気、と言うこともできると思う。
日常のちょっとしたことだけど「なかなか他の人がどうしてるのかは分からないこと」で、自分の判断に不安になり、やりすぎたり、やらなすぎたり。
あるいは根底に、絶対間違いのない判断、基準を求めてしまう、というのもあると思う。
「普通」ってなんだ?って、私もよく考えた。
洗わなければ、洗いたいって思っても、それと同時に、すごくおっくうな気持ちにもなる。面倒くさいとか、いちいち「洗い直し」しなきゃいけないという重圧も。
でもその感覚こそが、「普通」「正常」な感覚なのではないかなと思う。自分がそう感じたら、やっぱり「変」なのだと。
陰毛は確かに清潔と言えるものではないけど、それで3回も洗濯し直したり、手を10回も洗ったりしていたら、その清潔基準が「普通」なのであれば、世の中の人間みんな、日常のほとんどがお風呂と洗濯に取られた生活になっているはず。でも冷静に考えればそれはありえない。
私は埃が嫌悪の対象で、特にお風呂からあがったあとに自分の体に埃がつくと発狂しそうになるので、いつもお風呂の前には必ず部屋の掃除がセット、一時などお風呂と掃除で6時間ほど費やしていた時期もある。
当然風呂も掃除もおっくうで仕方がなく、「お風呂」と思うとまずあの掃除の重圧がのしかかって嫌気がさす…でもやらなければ後でもっと精神的に疲れるからしぶしぶやる…という感じだった。
が、ある時ふと、「この汚れが許せない」「掃除を完璧に済ませなければ」より、「面倒だ…」「サボりたい…」が上回り、勇気を出して部屋掃除を省いてお風呂に入ってみようという気になった。
お風呂からあがったあと、歩く先々で、足の裏が埃でいっぱいになり、せっかく綺麗に洗った身体も埃にまみれるような嫌悪感になったけど、同時に、いつもよりすごく早く風呂が済んだその「楽さ」、身軽さの喜びが上回った。
その感覚の方に、従ってみようかな?と。汚さに負けるというか、降参するというか。
もちろん次の日にはまた元に戻っちゃったりもしたけど、それでも、また辛くなったら、すべてを投げ出すような感覚で掃除をやめてみる…というのを揺れ動くように続けて、亀の行進ではあるが掃除の時間を短縮できるようになっていった。