不潔恐怖の歴史 その6

家の中でどんどん「汚い場所」「近寄れない場所」が増えていった。
本当に掃除してなくて埃まみれで汚いから、「気にしすぎ」とも思えず…。

でも強迫の不潔恐怖はそういうもの多いよね。
例えばトイレや排泄物の汚染への恐怖も、「実際に汚い」から厄介だ。「汚くないよ」では自分を説得できない。汚いことは汚い。

基本的に、「気になる」から「気にならない」へ、理屈で自分を説得して変えるのは無理だと思った。

行き着いたのは、「汚くない」と思えるようになろうとするのではなく、「汚い、すごく汚い、だけど諦める」だった。
汚い、すごく汚い、だけどもうどんな汚いものにもまみれてやるよ…!というヤケクソな気持ちに持っていく。もう捨て身。
でも「汚くない」と思おうとするよりは楽なのだ。

汚いか汚くないか、アタマで判断しようとすると発狂しそうになる。
汚い、すごく汚い・・・!けど、自分が「疲れるな」「しんどいな」と感じたら、そのことを優先してそのままでいる。
自分がしんどいと感じたか、そうでないか、汚いか汚くないかではなくそこを判断基準にする。
疲れた、しんどいと思ったら、やりすぎなのだと判断する。少なくとも自分はしんどいと感じているから無理なのだと。

埃は汚い。排泄物は汚い。だけど、完璧に避けるのは無理。どんなに気をつけても。
少なくとも私には無理のようだ。すべての汚れを、完璧に除去することはできない。
どんなに細心の注意を払ってもうっかり埃を立ててしまうことはある。埃に接触してしまうこともある。あれだけ注意していたのに!って地団駄踏んで悔やみたくなる時もある。
自分だけならまだしも、人と暮らしていたら自分だけではあらゆることを防ぎようがない。

実際自分は、気をつけなければ、全力で「きれいを守る」行為をしなければ、本当に汚くなっていく。
服にすぐシミは作るし、そこらじゅうホコリだらけにするし、パソコンはホコリと指紋でベタベタだし。もともと不器用でズボラでおっちょこちょいだから。
でも私は汚くしか生きられないとあきらめる。
0か100かでしか考えられないので、楽になれる方法があるとすれば、中途半端に「普通」を目指すのではなく、すべてを捨てて、とことん汚くなろうとすることしかできないのだ。
もちろんすごい抵抗があるし、簡単にはできない…というか全然できてないけど、いよいよ追いつめられたらその手がある・・・それを”最後の砦”、最終的にはそれがある、と思って生きている。