「自分で自分が信じられない」という心もとなさを常に裏で抱えつつも、思春期の中盤までは何とか誤魔化しやってこれた。
その頃は勉強が楽しくて、やればやっただけの結果が手に入って、勉強以外でも色んなことを任されたり期待される機会も増えた。自己万能感が肥大していった時期だった。
その一方で、心の中は綱渡りのような危うさもあった。
そのうち、それまで当たり前にできていたこと、無意識でできていたことが、できなくなるという経験が増えていった。「そう言えば今までどうして出来てたの!?」って。急に頭が真っ白になるような、煙に包まれるような…。
特に「簡単なこと」ほど怖かった。
簡単と言われること、できて当然と思われるようなことほど、「できなかった場合」を考えると恐ろしい。
恥をかく、幻滅される、自分の惨めな結末をまず想像してしまう。
「こんな簡単なこともできなかったらどうする?」と自分を追いつめる自動思考がわく。
むしろ”誰にとっても難しいこと”の方が気楽に取り組めた。できなくても恥ずかしくないから。
特に右脳でやること、理屈じゃなく感覚でやるようなことで、能力喪失のようなことがよく起こった。
例えばピアノ。譜読みをして、指の動きを練習する。するといつのまにかスラスラ弾けるようになっている。慣れたら考えなくても。
ピアノなど楽器演奏は、理屈ではなくて感覚でやる、頭よりも体で覚えることの典型だ。
でもふと我に返り、あれ?そう言えば今までどうしてできてたんだっけ?と思う瞬間がやってくる。
なんで88もある鍵盤の上で指の飛び幅も広いのに、自分は正確に鍵盤を押さえられてるの!?って。
急にそれまでの自分の”感覚的な部分”が信用できなくなり、その瞬間から指が動かなくなり、今までしなかったようなミスを繰り返すようになった。
考えないでもできていたことは、変に頭で考えすぎるようになると、できなくなる。
余計な思考は感覚の邪魔をする。
もちろん「自信」の問題ではなく、単に能力の問題でできないこともいっぱいある。
いい加減な練習、準備不足もこうした不安を呼ぶ。だけど、
今まで出来ていたはずのことができなくなる、「なぜできていたのか?」とそれまでの「できていた時の感覚」を急に喪失するような感覚に襲われる、できなかったらどうしよう…!という強烈な恐怖心に襲われる、どんどんそういうことが増えていった。
ずっと「精神力が弱い」で片付けてきたけど、もういい加減、こんな自分に終止符を打ちたかった。
その頃、強迫性障害で生活もがんじがらめの状態だったけど、インターネットによって急速に自分の状態の理解が進んでいた。
ネットで自分と同じような人の乗り越えた過程などを読んでいると、「自信」とか「自己信頼」というキーワードが頻繁に目に入ってきた。
よく考えれば強迫性障害も、自分で自分のことが信用できなくなる病気とも言える。鍵をかける、手を洗う、きちんとやっているはずなのに、その自分が信用できず、何度もやり直してしまうのだから。
最初、まるで自分には無縁の言葉だと思いスルーしていた。ずっと私は「自信満々な人間だ」「自信過剰すぎるくらいだ」と思っていたから。
でも実際は逆だった。実は私は自分に自信がない人間だったのだ、何かやる時、挑戦する時、常に感じた心もとなさ、土台のグラグラ感の正体はこれだったんだ・・・!と、自分のこれまで、育てられ方を振り返り、合点がいった気がした。
そう気づいて、克服するために私がやったことは、
「できない」「無理」という気持ちと戦って、やり抜くということを繰り返す、ただそれだけ。
簡単なこと・・・これは明らかに気持ちの問題でできなくなっているだけだということを選んで、それを繰り返した。
そうしたら、できたのだ。
「できない」「無理」という気持ちをはらいのけて、最後までできた(本当に簡単なことで、社会的には何にもならないことだったけど)。
その感覚を得た自分を信じて、また同じことを繰り返す。
…「戦う」というのとは、ちょっと違うかな。
不安を、恐怖心を、無視する。取り合わない。
今までそれらに律儀に向かい合いすぎていたのだ。
「大丈夫、できる」「この不安に”かまう”必要はない」と自分に言い聞かせる。
ただしそれができたのは、「自信の問題」(自分で自分を信頼できない問題)だと気づけたからだと思う。
気づけないと、ただ「不安を無視しろ」なんてできない。それが最終的な正解なんだとは分かっていても。
単純に精神力や能力の問題だと思っていた時はどうしても、恐怖心を「わかせないようにしよう」としてしまっていた。能力が足りないから、心が弱いから恐怖心がわく、だからもっと鍛えなくちゃいけないんだと。そんなことは無理なのに。
でも気づけたから、これは取り合う必要がないん気持ちなんだなと、スッと思えている。